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野口茂四郎|100回忌法要

平成25年(2013年)11月19日、野口茂四郎様の100回忌法要を当山雲林寺にて修行致しました。

茂四郎100回忌 雲林寺 長野原総勢10名の僧侶で厳かに行われました。雲林寺では初の100回忌法要となりました。

 

資産家の長男

明治の吾妻郡を代表する巨星、野口茂四郎は安政3年(1856年)9月19日、長野原町川原畑で資産家である不二吉、りわの長男として生まれました。

不二吉はまれにみる努力家で、一代で長野原・吾妻町その他西吾妻の各土地を買い求め、辛苦のすえ大きな財をなしました。

茂四郎は生まれつき落ち着きがあり、意思がしっかりしていて、優れた素質に恵まれていました。

また、豪胆な性格で、明治元年、13歳の時に渋川郷学(ごうがく)の大家 堀口藍園(らんえん)に儒学を学びました。

また、茂四郎は剣道の達人でもありました。

福沢諭吉に教え受ける

明治2年、14歳の時、進学の大志を抱き、東京におもむき、慶應義塾に入学、福沢諭吉から直接その教えを受ける幸運に恵まれたことは、茂四郎の一生を左右しました。

吾妻郡においては最初の慶応塾生であったそうです。

慶応 雲林寺 長野原

経済発展に努力

明治13年、懐かしい郷里に帰り、川原畑生産会社を設立し、自ら社長となりました。

この会社は産業組合と銀行を兼ね備えたもので、中之条町、原町、岩下等に創立され、茂四郎個人の出資金と郡民の共同出資のもと、郷土の産業経済の発展に大いに貢献したそうです。

明治14年、吾妻学事会員、県教育及び衛生会議員に就任しました。

明治16年、28歳の時には群馬県議会議員に当選しました。

以来6期当選、明治26年には県議会副議長に就任しましたが、県会においての理路整然たる、さわやかな弁舌の前には敵するものとてなく、群馬県会議員の風雲児とたたえられたそうです。

吾妻渓谷 開削の大事業

茂四郎の最も大きな事業は、東西吾妻の近路(ちかみち)であり、幹線である国道145号線の道陸神峠(どうろくじんとうげ)越えの難所、吾妻渓谷の開削でした。

これは茂四郎の祖父、茂左衛門からの悲願であるとともに、何百年以来の沿道住民の塾望するところだったのです。

吾妻渓谷の開削の歴史を顧みると、およそ220年前、茂四郎と同じ長野原町川原畑出身で竜徳寺の僧、野口円心が北は北海道から南は九州まで全国行脚で得た浄財をことごとく提供し、人のため世のため、この道陸神峠(どうろくじんとうげ)、久森峠間の難工事、特に樽の沢難所の工事を行っていました。

次に幕末弘化3年11月(1846年)、元治元年10月(1864年)の2回にわたり、地元の人や通行の越中、信濃の麻その他の諸商人の協力によって吾妻渓谷国道145号線頭部にある樽の沢の最難所の開削が行われました。

その記念碑ともいえる磨崖の碑がありましたが、昭和19年吾妻線工事の際、破壊されたことはとても残念です。

しかし、このせっかくの難所工事の道も、明治になって車馬の通行には適しませんでした。

中世~近世~明治前期まで、伊香保⇔中之条⇔沢渡⇔暮坂峠⇔草津⇔渋峠⇔信州中野道は上信の主要街道でした。

そして明治前期、この暮坂道筋は仮設県道、のち県道に設定されました。

また、高崎⇔大戸⇔須賀尾⇔長野原⇔草津の街道も重要な道路(草津街道)として利用されていました。

明治23年に着工

野口茂四郎のかたい信念は「経済、文化の源泉は道路政策の充実にある」ということでした。

多くの反対の人々を押し切り、明治23年以来、県から3千円の支出を議決させ、吾妻渓谷の開削に着工しましたが、東西吾妻をさえぎる峨々(がが)たる固い巌石の山々は行く手をさえぎり、吾妻川の激流は岩をかみ、渕となって茂四郎の前にたちはだかりました。

この開削に屈しない茂四郎は「乗り出した船は返すことは出来ない、あらゆる荒浪を乗り越え、ただただ前進あるのみ!」と決意。

県費だけではとても完成できないことを覚悟した彼は、ばく大な私有の土地を寄付し、その他、縄、鍬(くわ)、つるはしから足場の材料まで茂四郎が負担しました。

地元長野原町、岩島村の人々を始め多くの多大な努力によって、ついに待望の難関を突破し、開削に成功しました。明治27年、茂四郎が39歳の時でした。

後世の人は、この輝かしい功績をたたえ「野口新道」と呼びました。

茂四郎 雲林寺 長野原

第8代の長野原町長に

その後、県議会議員辞任後は明治32~36年まで吾妻郡会議長(2期)として郷土の発展に心身を砕きました。

長野原町長就任は明治34年~35年で懇望されて町長(第8代)を引き受けましたが、在職1年で後進に道を譲りました。

明治35年以降、一切の公職をいさぎよく退き、以後もっぱら世を避け、好きな園芸を楽しみました。

明治37年(1904)10月21日、突然脳卒中で倒れしまい、その間10年治療に手を尽くしましたが、大正2年(1913)5月23日、58歳で亡くなりました。

野口茂四郎 位牌 雲林寺 長野原

野口茂四郎のお位牌はお寺に安置されております。

戒名は 天徳院太量政道居士 です。

茂四郎100回忌 雲林寺 長野原

お寺にお越しの際は感謝を込めて手を合わせてみてはいかがでしょうか。

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