満蒙開拓慰霊塔で慰霊法要
北軽井沢を代表する青々としたレタスやキャベツ畑に酪農の風景
これらはわずか70年数年前、戦争で全てを失ってこの地に辿りついた人々が、荒地を一から切り拓き、作り上げたものです。
満蒙開拓
1932年に日本が傀儡(かいらい)国家※ 満州国 を建国したことを契機とし、45年までに満蒙開拓団と青少年義勇軍の計約27万人が入植しました。
※傀儡(かいらい)国家…内政も外交も自己決定権が完全ではなく、支配者の利益のために操作・命令され統治される国家
世界恐慌の影響で農村が疲弊し、貧困対策と旧ソ連との国境防衛強化という2つの狙いがありました。
1945年8月9日に旧ソ連が日ソ中立条約を破って対日宣戦し、満州国に侵攻。
満州国駐屯の日本軍の多くが移民を置き去りに敗走し、旧ソ連軍は戦時国際法を無視して非戦闘員の移民を殺傷、約8万人が死亡し、多くの中国残留孤児を残しました。
群馬県民は8780人余が入植し、1680人余が死亡しました。
旧満州(現・中国東北部)で亡くなった群馬県出身移民の霊を悼む
9月24日、慰霊法要が開かれました。
約40人が参列し、誤った国策のために異国の地で落命した人びとを悼みました。
群馬満蒙拓魂之塔が建立されたのは1974年。
引き揚げ者や遺族らでつくる群馬満蒙拓魂之塔奉賛会と、群馬県拓友協会が毎年この時期、慰霊法要を開いています。
粗末な小屋に暮らす厳しい暮らし
北軽井沢は戦前、旧皇族・北白川宮家の私有地で1948年に旧満州から引き揚げた27人が入植して開拓を始めました。
当時の大屋原はあたり一帯カラマツとクマザサの生い茂る原野でした。
カラマツを倒して柱にし、クマザサで屋根をかけた粗末な小屋に暮らす厳しい暮らしを強いられました。
水道も電気もなく、住居や畜舎も共同でした。
焼畑をし、アワ、ヒエ、大豆、じゃがいも等を作るものの、高冷地のため思うように作物は採れませんでした。
私の祖父であり28世住職 大慈提三大和尚は、この当時、寺の仕事と町役場の仕事を兼務しておりましたが、この地域に住む人々の税金を徴収することができず、自ら、たて替えて町に払っていた、と後々教えてもらいました。
当時のこの地域の人々の生活の厳しさが伝わる話です。
その後、冷害の影響や、輪作試験地での適正検査の結果、この土地は酪農が適していると判断されます。
昭和30年代には電気も通り、道路も整備され、機械化の導入も進み、高原野菜や果樹栽培にも取り組み、現在の群馬県内有数の農業、酪農地帯となりました。
開拓時代の記憶を次の世代へ
引き揚げ者の父が北軽井沢に入植した奉賛会長の真下豊さん(酪農業)は
「後継者として育ち、ここまでくることができました。私たちの世代がどう伝えていくかが課題です」と最後に挨拶をされました。
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