仏像の世界へ
日本人であれば、旅行や観光で 仏像をおがむ という経験を一度はするかと思います。
しかし、かつておがんだことのある 仏像の意味やご利益 をご存じの方は少ないかと思います。
仏像の意味やご利益 がわかるようになると今後の旅行や観光がさらに充実するかと思いますので
仏像の世界への入り口(導入)をお話させて頂きます。
そもそも、仏教が開かれた当初は 仏像 というものは存在しませんでした。
お釈迦様の教え 自灯明(じとうみょう)・法灯明(ほうとうみょう) 自らの心に従い、正しい教えを拠りどころとして、精進していく |
つまり、自分自身を信じること と お釈迦様の教え だけが大切なのだ、とされていました。
しかし、お釈迦様亡きあと、仏教の教えを 確かな形 としても残していかなければならない、
といった経緯で 仏像 がつくられるようになりました。
金剛力士像(こんごうりきしぞう)は寺院の 門 に安置されることが多く、仏法を守る神のことを言います。
2体で1組となっていることが多く、阿形(あぎょう)像、 吽形(うんぎょう)像 と言います。
互いに息が合っていることを表す あうんの呼吸 という言葉は、金剛力士像が起源となっていると言われています。
門番として 仁王立ちしてにらみをきかせる 金剛力士像(こんごうりきしぞう)
さまざまな敵が来たときに、それらから守り、敵の侵入を防ぐ役割を担っているとされます。
上半身も下半身もたくましい筋肉で覆われており、その姿から健康や健脚にご利益があると言われています。
脚(あし)は第二の心臓 といわれております。
金剛力士像(こんごうりきしぞう)のような 脚 を持ち、健康に長生きしたいものです。
仏教では人の死後、生前の善行や悪行によって行く道が六つに分かれていると言われております。
六地蔵 とは、仏教において地蔵菩薩が六つの世界(六道)で人々を救うために、それぞれの世界に対応して祀られた6体の地蔵菩薩のことです。
天道 | 善業を積んだ者が生まれ変わるための、悩みや苦労がない世界 |
人間道 | 善業と悪業が混在する、私たちが生きている世界 |
修羅道 | 他人を傷つけた者が生まれ変わるための、争いや喧嘩が絶えない世界 |
畜生道 | 幸せな人をねたみ、他人の不幸を喜ぶ者が生まれ変わるための、弱肉強食の世界 |
餓鬼道 | 他人のものを奪ったり、欲深い者が生まれ変わるための、飢えと渇きに苦しむ世界 |
地獄道 | 罪を犯した者が生まれ変わるための、最も苦しい世界 |
各地蔵菩薩は、それぞれの世界で苦しむ人々を、旅の僧の姿で現れ、苦しむ魂を守護します。
そして、正しい道へ導く役割を持っています。
死後どこの世界に行くのか、生前の行いによって決まるので、日頃の良い行いが大切であることを痛感します。
四天王(してんのう)はインドに仏教がおこる前の神話時代から存在し、お釈迦さまから自分が亡くなった後に 仏法を守護するように託されたといわれています。
持国天(じこくてん) |
東担当 | 国を支える者 今にも振り下ろさんかという迫力で剣を構えている姿で表わされる 家内安全のご利益 |
増長天(ぞうちょうてん) |
南担当 | 恵みを増大させる者 槍の先がフォークのようになった武器を持っていることが多い 商売繁盛のご利益 |
広目天(こうもくてん) |
西担当 | 持国天や増長天が剣や戟(げき)などの武器を持っているのに対し、広目天は、筆と巻物という知的アイテム持つ 学業成就のご利益 |
多聞天(たもんてん) |
北担当 | 仏の説法を多く聞く者、広く名のきく者 宝塔という、小さな五重塔のようなアイテム(お釈迦さまのお骨をおさめる容器)を持つ 財宝富貴のご利益 |
甲冑を着た武将姿の像で、岩や邪鬼の上に立っており広目天(こうもくてん)以外は武器を持っており、広目天は筆と巻物を持っています。
西暦587年に聖徳太子(574~622)は蘇我馬子らとともに、排仏派(神道)の物部守屋らと戦いました。
形勢が不利になっていた聖徳太子は 四天王 に戦勝を祈願しました。
そして勝利したことで 仏教 が取り入れられ、この後、法興寺(飛鳥寺)や四天王寺、法隆寺などが建てられたのです。
聖徳太子は 仏教を国づくりに活用し日本の仏教の基礎を築かれる、偉大な業績を残しました。
不動明王(ふどうみょうおう)は、日本各地で お不動さん として親しまれ、いまでもたくさんの人気と信仰を集めています。
不動明王 のサンスクリット語(古代インド語)による名称は アチャラナータ
アチャラ は 動かない 不動であることを意味し、
ナータ は 守護者 を意味します。
燃えさかる炎を背負い、怖い顔をしておりますが、その心は人々を救いたいという慈愛に満ちています。
では、なぜ怒っているのでしょうか?
我々凡人は、大抵、自分の思い通りに行かないときに怒ります。
お不動さんは、人々がどうしても悪事を止めないとき、また、心の中の煩悩が押さえようもなく沸き上がってくるとき、思いやりの怒りでそれらを叱ってくれるのです。
つまり、優しいお顔だけでは言うことをきかない悪いものを正しい道に導くためなのです。
右手を枕にして頭を支え、薄目を開けているお釈迦様
この姿はお釈迦様の現世での最後の姿を表現したものです。
入滅する直前、横になりこの姿で弟子達に最後の説法を説いた、いわれています。
とても穏やかな表情で、どこか懐かしいような、心落ち着く優しいお顔です。
お釈迦様は最期まで意識がはっきりしており、枕もとにいる修行僧たちに最後の言葉を残しました。
「私の亡きあとは、私ではなく自分自身をより所として、また私が伝えた教えを、闇を照らすともしびとして、歩んでゆきなさい」
この教えを 自灯明(じとうみょう)・法灯明(ほうとうみょう)といいます。
お釈迦さまは個人崇拝の対象となることを否定され、弟子一人ひとりが確かに、自立して進むことを求めたのでした。
そして
「もろもろの存在は変わってゆく。怠らず精進しなさい。」
という最期の言葉を残し、静かに息をひきとったのでした。
仏像は古くから生活の身近に存在し、人々に安らぎや感動を与えてくれています。
そして、そのお姿は「きれい」「かわいい」「怖いけどかっこいい」と、さまざまなことを感じるはずです。
いつのまにか心が安らいで清々し気持ちになるでしょう。
是非、仏像の世界を旅していただきたいものです。
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