茂四郎トンネル
国道. 145号線のトンネルの名前の由来となった野口茂四郎は、難所だった吾妻渓谷に私財を投じて開削し、野口新道を開通させた人です。
群馬県の吾妻郡は6カ町村から成っていて、
西部 | 草津町(温泉)、嬬恋村(キャベツ)、長野原町(ダム) |
東部 | 東吾妻町、中之条町、高山村 |
と分けられます。
その昔、吾妻渓谷は吾妻を東西に分断し、人馬の通行を拒絶した大難所でした。
吾妻(あがつま)の語源の一つに 上がり詰まったところ という意味があるそうです。
他の地へ移動するのに常に峠を越え、あるいは深い川を渡らなければならなかったのです。
吾妻の東西を貫く道は、武田氏の時代、真田幸隆が岩櫃城攻めのため通ろうとしましたけれども、吾妻渓谷に遮られ、暮坂峠(くれさかとうげ)へ迂回せざるを得ませんでした。
その後、沼田城を落とし入れた後でようやく沼田と信州上田の間に街道が整備されました。
しかし、この道は人が通るのがやっとであり、東西吾妻の交易は極めて少ないものでありました。
江戸時代になり流通経済が活発になると、草津温泉への湯治(とうじ)、社寺への参詣や繭や麻の仲買人の往来が盛んになり、東西吾妻を直結する最短道路=吾妻渓谷の開削、開通が求められました。
安政3年(1856)、野口茂四郎 は長野原町川原畑の財閥不二吉の長男として生まれました。
福沢諭吉から直接教えを受け、慶應義塾で学んだ後、明治16年、28歳で県議会議員となり、東西の吾妻の間に、車を通ずる坦路を開くことの緊切必要であることを力説提唱し、明治26年、今日の吾妻峽新道を4年がかりで完成させました。
道路の建設は県から補助金を受けて郡役所が実施していました。
野口茂四郎は、この道路の完成に精魂を傾け、県費だけでは道路の開削が困難であるため、自身の家財をなげうってこの道路を完成させました。
草津町、嬬恋村、長野原町 3ヶ町村の開発のため、私財を投じて開通させ、大きな功績を残した 野口茂四郎
野口茂四郎は雲林寺の檀家様であり、現在も埼玉県に住む末裔の方がお寺を訪れます。
お位牌もお寺に安置されております。
お寺にお越しの際は感謝を込めて手を合わせてみてはいかがでしょうか?
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